『鏡』の前では正座して

 先日、また『惑星ソラリス』を観てしまったと書いたけれども、実をいうとそのまま勢いで、『鏡』も鑑賞してしまったのだ。まあ『鏡』は『惑星ソラリス』ほど頻繁には観ていないけれど、それでも4回目ぐらいになるだろうか。
 しかし今回は鑑賞態度に問題があった。というのも、なんとなくDVDをトレーに載せたので、観終わる前に別のテレビ放送(ニュースとか)をチラリと観てみたくなってしまったのだ。
 しかしこれはタルコフスキーに対して失礼である。『鏡』は『惑星ソラリス』と違って、ほとんどストーリー性がなく、動くポートレイトというか、深遠なイメージフィルムみたいなものなので、途中でポーズボタンなどを押してはいけないのだ。もちろん長い中断などは言語道断、雑音も一切排除して、家で観るのなら、カーテンを閉めて電話もオフ、画面の前ではできれば正座して拝見すべき(ややオーバーだけど)ではないか。と、反省しきり。
 しかしこの映画、不思議なのは観るたびに印象というかイメージが違う。そういえば馬場広信さんの『タルコフスキー映画』でも、『「鏡」の本』を作るときに記憶に残るシーンを掲載しようとしたが、それが見つからないことが多かったという意味のことを冒頭に書いている。記憶との微妙な齟齬、それもまた『鏡』の魅力なのかもしれない。
 そうそう、この『鏡』のボーナストラックには『惑星ソラリス』の英語版予告編が入っているのだけれど、その中には焼け爛れたロケットでステーションに到着するクリスとか、鏡を見て髪を梳かすハリーといった、映画にはないシーンが観られる。さらに『鏡』の冒頭あたりでは、草原が風になびく幻想的なシーンがあるけど、これをどうやって撮ったのか、ずっと不思議だった。でもフォトアルバムをしっかり見ると、なんとその草原の上をヘリコプターが飛んでいるではないか。つまりあの風はヘリコプターで作ったことになる。
 むむむ、改めて思う、タルコフスキー恐るべし。