サインの気持ち

(昨日の続きです)
 本に著者のサインをしてもらうということは、そもそも何なのだろうかと考えてみる。
 もとより本は印刷物であり、つまり単純なる複製生産物だ。そこにインクで言葉という記号を連ね、消費者はその記号を再構築することで、その物語世界なり、ハウツウなり、真理なりを自分のものと(なった)するわけだ。それはある意味、極めて「物神性」の高い単純複製物といえるかもしれない。
 本はもちろん原稿が元になっている複製物である。もともと一部しかない原稿が印刷技術のおかげをもって、いともたやすく万単位の複製が可能となった。しかし本に「神性」に近いものを感じたとすると、ただ複製ではなく元の原稿とのつながりを欲することとなる。それが著者のサインであり、それが記された本はただの複製物から、原稿のほんの一部もどきが含まれる唯一無二の存在となるわけだ。いわばこれは聖痕であり、その他の数多存在する同じ本とそれを峻別するよすがとなる。
 まあこのあたりが、読者がいにしえより著者のサインを尊んできたことの理由のひとつだろう。
 しかしいまや原稿のほとんどはパソコンによって書かれている。だからこの仮説は本質的には成立せず、サインは著者のただ直筆としか意味しない。かつての原稿との連なりという幻想はすでに途絶えているのだ。
 だが長年の習慣や風習なんていうものは、別の意味や価値によって継続される。そしていまやその理由が逆立ちしてしまっている気がする。
 で、問題にしたいのはこの意味や価値がいったいなんなのかということだけれど、それを書き進めると角が立ってしまいそうなので、控えておくことに・・・しようかな。