進歩と調和ゲート

 (昨日の続き)
 子供の頃に見たものを大人になってからまた見ると、それがずいぶんと小さく見えてしまう、なんてことがよくいわれているけれど、もし太陽の塔が、とってもチンケに見えてしまったら、どないしょうと、正直なところ若干なりとも不安ではあった。
 しかし、「わが塔」はチンケなんていうシロモンとはまったく違っていた。確かにあの時のビビビビィーといった感動はないのだけれど、逆にしんみりとしたものがゆっくりと身体の中に入っていくのだ。
 ああ、やっぱり来てよかった。しみじみそう思う。
 そして逆にチンケに思ってしまうのは、その入り口である。まるで区立動物園程度のそれは、まさに時代が逆転したかのように古臭い。何も近未来的なものを作る必要はないのだけれど、うーむ。
 いや子細を知らないものがとやかくいうのは、このくらいにしよう。とにかく塔がそこにあり続けてくれれば、それでいい。
 ということで、料金を払い、ゲートを抜ければ、まさに天上天下唯我独尊として、どーんと前にそびえているのは、懐かしいそれであった。あの大屋根もなく、手前の大きな階段も、後ろのお祭り広場も、左右に控えていたモニュメントも、そのすべてはなくなっているが、それでもやはり太陽の塔は、太陽の塔としてそこにあった。
 近づく道はアールを描いている。最初は変なの、まっすぐに行ければいいのにと思ったのだけれど、これにはたぶんわけがある。それにきっと太陽の塔を眺める、ほとんどの人が気づいていることだろう。
 この塔は、どんな位置から見ても、凛々しく、雄大で、そして何より美しいのだ。それを知らしめるために、その曲がった道が作られたのだと思う。
 私たちは向かって右から、「彼」に近づく。それは両腕を広げて待ち受けてくれる。
 そう、私は42年前にあの中に入り、そしてその腕から空中に浮かぶような屋根に上ったのだ。その空間は今の空のままに、そこにあった。(続きます)