ほぼ最後の運河

 うーむ、昨日の火星の運河の話なのだけど、いろいろと考えさせられますなぁ。
 一度でも天体望遠鏡で惑星を観たことがある人ならわかると思うけれど、地球上から観る惑星の表面というのは、大気の影響でプールの底からあたりの風景を眺めるように揺らめいているのです。だから一瞬だけ観えたと思えたものが、次の瞬間には観えなくなっているのは当たり前。でもその観えたことは、事実なのだから、観測者は当然のこととしてそれをスケッチに写し取るのです。
 実際に火星は、小さな茶色か黄色いの丸に緑色っぽいくすみと、白い小さな帽子がちょこんとのっているぐらいにしか、たとえ大接近のときでも観えない。そしてそうでないときにはただの茶色っぽい点だ。
 火星には運河があるとか、運河みたいなものがあるといわれていた時代は、その緑のくすみのどこかに微かな点があって、それが二つか三つ、たまたま観えたり、観えなかったりすれば、それでもう運河となってしまったのだろう。
 私が天文に興味を持ち出した頃は、そんなものは火星にはないことが明らかになっていたのだけれど、それでも、とある天文雑誌を読んでいたら、ずっと昔からアマチュアとしてはありえないほどの口径の大きな(つまり対象を分解する能力の高い)望遠鏡を、火星に向け続けていた市井の天文家を取材した記事に、悲しいくらいに鮮明な運河状の線が描かれたスケッチが何枚も載っていたのを憶えている。
 勝手な想像だけれど、観測者の運河存在率というのは、きっとその観測年次の古さに比例する。
 さてくだんの図鑑『宇宙旅行』は、最新のマリナー4号による火星表面のほんの一部の写真撮影に触れつつ、「こられの写真のなかには、運河の写っているのがあるはずでしたが、どうしたわけか、それらしいものは見えませんでした。そのかわり、おどろいたことに、その半分ぐらいに月と同じような噴火口が写っていました。これは学者にとっても、まったく思いもよらないことでした」とある。
 別のページでは、直線が交わっているような沼か川としての運河のイラストを掲載されているけれど、それはきっと堂々と運河が掲載された最後の部類に属するのかもしれない。