散歩あゆめず13

 書き手の思惑と違って、ずいぶんと長くなってしまったこの「散歩あゆめず」だが、アリガタクもこれを読んでいただいている人は、きっと以下のことに気づいていることだろう。
 ここの言葉遣いには、よくいって「迷い」、フツーにいって「いい加減」なところがある。それは最初は意図していたという側面があったけれど、今となってはやはりドーデもいいか、といった具合のほうが大きい。
 そう、こういった題材の場合、避けられないのはそういった題材に関わる言葉に、昔から、あるいはつい最近に付着してしまった、はなはだ不可思議な意味合いがあるということなのだ。
 例えばデモという言葉、多くの人はこれを聞くと、その瞬間にその言葉にこびりついているさまざまな意味合いを読み取って、何らかの判断なり、決断をすることだろう。
 それがゆえに昨今ではパレードと呼び方を変えている場合もある。うーん、ディズニーランドじゃあるまいし。
 そしてそういった言葉は、運動、集会、ビラ、などなど、かなりの数に上り、それぞれにいろんな意味が付着している。
 またまたツイッターを見ていて、アレレと思ったのは「動員」という言葉である。これは本来はただ人を集める行為に使われると思う。ここには基本的に政治的な価値判断は生じてはいない。
 けれど、日本の社会では、労組の上部組織が下部組織に対して集会や活動の場に人を出すことを、金銭的な見返り含めて要請することを、揶揄を込めて、つまり付着した意味合いを含めて使われていることが多い。ここには明確に政治的判断が存在している。
 そしてそのくだんのツイッターでは、ネットで人に「来ませんか」と呼びかけていることを「動員」と呼び、それをもともとの意味合いというよりも、この政治的な意味合いを込めて使っていると、私は理解した。
 ここには本人の自覚があるのとないのとに関わらず、明らかにそれを伝える人の考え方が表現されている。早い話がそれは安易なレッテル貼りであり、一昨日にチラリと書いた、自己防衛のための、簡易防波堤の構築ではあるまいか。

 人々の流れは、わたしを含んでほんの少し膨らんだ。さらに明治通りと交わる前に、若い女性たちの一団が歩道から入ってきた。彼女たちは手作りの横断幕を持ってきた。それをぎこちなく広げた。それはたぶん初めてそれが陽の光を浴びた瞬間だったと思う。