灰色の山の、キミもひとり、か。

 うーん、酔っ払ってゴロンと横になったら、「タモリ倶楽部」を見過ごしてしまった。うむ、酒に弱くなったものだ。ただコストパフォーマンス的にはイイか。起き出すと「まほろ駅前番外地」が映っているテレビの前のソファには、やはり見過ごしたまま寝ているツレの姿が。
 

 さて、ではしつこくも会田誠展。その寝過ごしたツレが絶賛した作品が、「灰色の山」である。2009年から2011年の制作だという。
 遠くから観ると霧にかすむ不思議な山水画のようにも思えるが、近づくとその変わったカタチの山は、まるで砂時計のそれでもあるような見え、そのすべてがサラリーマン姿の死体(らしきもの)が積み重なってできているのだった。あまりの数なので、誰もそのすべてを確認することはできない。サラリーマンだけなのかは、たぶん制作者しか知らないことなのかも。
 あの「ぶらぶら美術館」では、この中にウォーリーがいるといっていたけど、図録ではルーペを使っても見つけることができない。もしかすると彼はノドの部分にはまってしまったのか。
 しかし、まあなんともとてつもない作品である。ここに積まれている男性(未確認)のほとんど(未確認)は、顔が描かれていない。それはあまりの数なので描くのが面倒、というのではなく、やはりひとつのメッセージなのだろう。つまり不特定の人物、その数多なること、なのである。彼らととも積み重ねられているのは机や鞄、それにパソコンやテーブルである。これまた勝手な想像だが、彼らはその属性ゆえに自らこの山となった人たちなのではないだろうか(まわりくどい言い方だね)。
 この絵の隣には、2001年制作の「ジューサーミキサー」が掲げられている。そこではやはり数限りない裸の若い女性が、巨大なミキサーにかけられていて、下の方はすでに血しぶきが満ちてきている。つまり発想そのものとしては共通のものがある。
 しかし十年の間を置いたこの二つの作品から感じるのは、作者は静かな力を得たということだ。極めてダイレクトでやや乱暴で、そして分かりやすい表現から、同じく分かりやすくも、静かに漂う深い力がそこにあるように感じたのだった(とても単純な個人の感想です)。
 ツレはお気に入りになった「灰色の山」のポストカードを欲しいといった。あまり飾りたくないんだけど。幸いなことにグッズコーナーには置いてなかった。