五反田今昔ストーリー その二十三

 「おおい、これを見てみろ、たいへんだ」
 サークルBOXは、建物の高いところにあった。
 双眼鏡氏のそれで、牛丼購入者たちは代わる代わる、遠い坂の途中を眺めたのである。その先にいたのは、白い大きな袋を右手で持ち、もう一つの手で自転車のハンドルを握り、渾身の力でペダルを漕いで坂を上って来る養老の瀧の店員さんだったのだ。年は四十ぐらいだったろうか。
 バイクでも軽自動車でもなく、出前の配達は自転車でやってきたのだった。私は大学の四年間で何度も下ったことはあるが、上ったのは数えるほどだろう。歩いて上ることも、軟弱な人間にはひるんでしまう坂だったのである。
 その彼の顔は今も脳裏にこびり付いている。私は牛丼は買っていなかったが、その時、その場所にいたのだ。
 疲れた顔、苦しい顔ではなかった。誠実に自分の仕事を理解しようとし、それをただ行うことだけを考えているる顔だと思った。少しにこやかでもあったと記憶している。
 遠い大学の構内から酔狂化なにかで出前を頼んだ学生がいる。そんなヤツラのことはいい。注文があったから、それを届けるただそれだけだ。だからこうして坂を上り、ペダルを漕ぐ、ただそれだけだ。注文は四つ、しめて1000円の売り上げだ。でもな、いやしかし、しかし……。
 私たちは無言になりながらも、彼のその顔を見て、そんな想像をそれぞれがしていた。
 やがて彼は正門から入り、構内を自転車で行く。それは軽やかな走りだった。
 そして最初からその場所がわかっていたかのように、私たちのいる建物の下に消え、エレベーターに乗り、彼はこの階にやってくる。まだ十分に温かい、四つの牛丼を下げて。