不必要の必要 その二十七

 三十年以上前に先生はこうもいった。
 「たとえば書棚に本があれば、その背表紙ぐらいは読む。それを読むだけでもいいし、覚えてなくてもいい」
 なにやら禅問答のようなその言葉に、耳を傾けていた新米の学生たちは耳ではなくて首を傾げることになるのだが、今ではそれもなんとなくわかる。しかしまだなんとなくなのだ。
 背表紙の言葉は書店での出会いのきっかけの一言であって、それは覚えているか、いないかに関わらず、その内容を象徴している。しかも内容はその本に書かれていたこと、それ自体ではなくて、その買い手が認識したこと、想像したこと、妄想したことも含まる。それはその本を読もうと読むまいと生まれてくる。
 考えてみるといい。読んだ本でも自分としては内容をほぼ完全に忘れている場合がある。あるというかかなり多い。しかしそれは実はどこかに置いてきているだけ。その場合、読んでない本もまたその状態に近い、といったら極論だろうか。
 とにもかくにも、書棚に並ぶ背表紙の言葉は、そういった内容ではなく、認識や創造や妄想への扉として機能している。
 その言葉を読むことで人はその本の中に入ることもできるし、自分の中のそれに入ることもまたできるというわけなのだ。