夢に夢を見る男

 さてそれではSF乱学講座で到達できなかった「惑星ソラリス」についての総論的なモノを、思いつくままにつらつらと書いていきます。
 まず一つはどうしてタルコフスキーはレムの「ソラリス」を映画化したかったのか、といった点ですが、その要因の一つと考えられるのは、人が眠っているときの願望、あるいは夢がそのまま具現化するという設定です。
 ただ忘れてならないのは、それを元に映画化するということは彼が数多く提出していた企画の一つに過ぎないということです。例えば「ストーカー」がそうであったように。ほんとうは小説「ソラリス」を隠れ蓑にほぼ彼自身による「ソラリス」を作るつもりが、状況がそれを許さなかったのかもしれません。
 夢は彼の映画すべてで重要な役割を示しています。
 学生時代の作品「ローラーとバイオリン」でも、最後には主人公の男の子は自分叶わぬ願いとなってしまったローラーの運転士との出立を、雨に濡れた道路上で夢として実現しています。
 「僕の村は戦場だった」でも、イワンが寝ながら伸ばした手に水が滴り落ちるのをきっかけとして、母親との日々を中心としたかつてあった日常が夢として描かれています。
 「アンドレイ・ルブリョフ」での夢のシーンは少ないのですが、それでもルブリョフは、キリストのゴルゴダへの道の場面をロシアの土地に再現する夢を見ています。ちなみにこの映画には死んだ師であるフェオファンが、阿鼻叫喚の場となった寺院の中に登場し、ブリューゲルの「イカロスの墜落の風景」を転じた気球の墜落シーンが冒頭にあり、たき火を背にした父親との再会と同様に、たき火近くでのルブリョフと少年の再生が最後のシーンなどが「惑星ソラリス」と重なり合っています。
 「鏡」はそのすべてが最後に顔以外として登場する作者の夢として、年少時代、租界時代、そして現在が展開しています。
 「ストーカー」では主人公の現実との境が不明瞭の夢で、何らかの啓示を受けたようです。
 「ノスタルジア」で主人公は故郷を夢に見、さらに世界が荒廃しているかのような風景の中で自分がドメニコに変貌していることに気づくます。
 「サクリファイス」でも、オットーの導きにより取る行動が夢であったかどうかは別にして、冒頭の男の子のいたずらに思わず彼を傷つけてしまった後に、カタストロフィの場を見て、さらに核戦争の危機の後にその夢の中に男の子がいることに気づくのです。
 ということで、タルコフスキーにとって夢は欠くことの素材であるようです。
 と、とっかかりで長くなってしまいましたが、続きはまた明日にでも。
★引き続き、ソラリスの海のような空。