分岐点としての「鏡」

 ということで、明日というか今日なのですが。
 スミマセン、ちょっとサボりました。
 願望の成就とか願いの実現などと昨日書きましたが、こういったテーマはタルコフスキーに限らず、多くの映画の基本的なテーマではあります。
 ただ彼の場合はそれを映像の中で普遍的に、あるいは純化させて描こうとしたのではないでしょうか。
 「惑星ソラリス」の最後のシーンはさまざまに解釈されていますが、その一つとして、私はクリスは死して父の元に戻ったと見ることにしました。それが「ソラリス」によってか実現したことになのかどうかはいわばオマケであり、彼はそのオマケ性をほんとは嫌っていたのかもしれません。
 この映画でのクリスの帰還はただ一人クリスによる、クリスのための帰還に過ぎません。ここに彼のテーマ性の未熟があるような気がします。その未熟そこを彼は「鏡」によって清算することができたのではないでしょうか。
 その「鏡」では今までのすべての映画によって描いてきた父性を、こちらが恥ずかしくなるほど直接的に、本当の父親であるアルセーニーのそれとして表現しています。そしてさらに手が込んでいるのは、それを自分自身と重ね合わせていることです。(続きます)