記憶違いによる「顔出し」

 ちなみに「鏡」におけるタルココフスキーの恥ずかしさの一つといえるのが、といっても私が勝手に思っているだけなのですが、ラスト近くに病人として登場する彼です。
 そこでは役割が明確でない婦人と彼女の使用人らしき年配の女性、そして医師に囲まれる形でベッドに横たわる男が出てきます。
 彼こそが監督タルコフスキーで、映画自体では肩から下しか映していません。つまりほとんどの観客はそれが彼であることは確認できないはずです。しかしそれにしても自身の登場は、作品の意味からいってもかなりイッてしまってます。
 しかしさらに混乱してしまうのは、この映画の予告篇で、その男が監督であることがわかってしまうことです。
 では映画を分析する上で、この予告編をどう扱えばいいかのでしょうか。とにかく、作品の不詳の横たわる男がタルコフスキーであることを知ってしまいました。
 このあたりをクドクドと述べていくと、彼の「隠されたものこそ大事である」うんぬんの策略にはまりこんでしまいますので、永遠と続けるわけにはいきませんが。
 実をいうと今回のイベントに際して、その顔を確認しようとDVDを観たのです。つまり本編に顔が出てくると思っていたのでした。つまり私の記憶は予告編のそれだったわけです。これはかなり危険なことなのかもしれません。(続きます)