本日の新聞から その六

 さて、くだんの記事には東京電力福島第一原子力発電所の所員の九割が、職場を離れて、第二原発に移動したと書いている。その理由として現場の混乱と伝言ゲーム的な指示な伝わり方の不手際が挙げられているが、所員を第一原発から離れさせた基本的な要因は死への恐怖だったろう。
 個々人の中にまずそれがあり、自分は事故対応の役には立たないという理由付けが、その行動を合理化させたのかもしれない。それも希望的、あるいは好意的な解釈で、ただバスが来たから乗ったという人もいるだろう。
 最近のニュースではやはり危機的な状況にあった第二原発は、わずかに構内に残っていた電源を事故対策に活用するために、200人が手作業でケーブルを引いたという。
 第一原発の職員のあの九割が残っていたら、はたしてどうなっていたかはわからないが、少なくともその事故の様相がこれ以上ひどいものになったということはないだろう。
 今回の朝日新聞の報道を受けて、別のマスコミでは第一原発からいなくなった九割の職員の非をとやかくいうことは建設的ではない、と書くところがある。さて、建設的という意味がさだかではないが、ここで九割の人々の考えたことを思うと、少なくても人間の根源的な部分には触れることができるのではないだろうか。
 つまり自分が今ここにいるその瞬間にも近くにある原子炉が爆発して、自分のすべてが失われるという恐怖を前に、人は何ができるのか、ということである。