本日の新聞から その七

 昨日付けの書き込みを読んで、またまた書き間違えを発見した。まあ、よくあることなのだが、書き直そうとして自分が想定したであろう意味が再生できない。で、まあ適当に直しておいたのだけれど。こういったことはちょっと珍しい。
 てなことを前ふりにして、いわゆる一つの昨日の続きではある。
 私なんぞは福島第一の事故の前から原発が怖くて仕方なかったので、もちろんその才覚も技量もないわけだけど、電力会社、しかも原発関係で働くなんてことを思い描いたことはまったくない。
 で、もし万一、たまたま観光とか取材か何かで(二十年以上前に何かのついでに浜岡原発を近くから眺めたことはある)、その場にいたとしたら、地震の後にあやうい事態を察知して、とるものもとりあえず(交通手段が確保できたのなら)、逃げ出していただろう。幸いなことに観光や取材なら、その事態には何の責任もないのだから。
 しかし原発の所員はそうではなかった。そこにつまりは良心のせめぎ合いとかいうのが発生した、はずである。
 しかも所員の英知たるやさすがで、彼らが現場を離れた直後に周辺の放射線の数値は最初のピークを迎えている。まさに原発のなんたるかを知る人の行動といっていいだろう。
 第一原発に残れば、そのトラブルによって自分は一瞬の内に失われるのだが、もし第二原発にいれば、時間的に余裕ができる。その時間によって何らかの行動がまた行えるということだ。その時間的な余裕は心理的に大きい。
 ただ残った六十数名を英雄視するのはかまわないが、逃げた九割の人たちを卑怯者というのはどうだろうか。確かに福島第一が完全に壊滅してしまい、そのほとんどの放射性物質が外気と触れ合えば、現在の何十倍、あるいは何百倍の地域を放棄せざるを得なくなり、根本的に日本というシステムは崩壊していただろう。しかしそれを前提にしたところで、その九割の人たちにその場で対処するようにとの強制は基本的にできないと思う。
 なぜならば彼らは私たち、少なくとも私とほぼ同じだからだ。