北の想像力への極私的歩み その11

 二度目に佐々木譲さんとあの店でお会いしたとき、私は『ベルリン飛行指令』を持参しサインをもらった。この本こそ私にとっての「佐々木譲」体験の最初の一冊となった。
 その冒頭には、60年代にF1レースに参戦していた本田技研のエンジニアたちが登場し、彼らは零戦の開発にも携わっていたと書かれている。ホンダのF1参戦は戦後20年ほどの時期で、技術者たちには「陸続き」の時代だったということになる。
 この冒頭とはまったく関係がないのだが、しばらくして私は広告制作会社を辞めて、モータースポーツ雑誌の進行担当編集者として、某版元に転職することになった。1990年頃だと思う。
 広告会社では曲がりなりにも毎月当たり障りのない文章を書いていた。その会社ではまだワープロが普及してはおらず、手書き原稿を手打ちで写植版下にしていたはずである。会社には一台だけ巨大なワープロがあって、簡単な企画書を作る際にはそれを使っていたが、文字数が多いプレゼン企画などは外部に委託していた。あの頃はワープロを打つことを仕事にしている会社があったわけだ。
 転職先の編集部員は個人のワープロを使っていて、基本的にはそれで作成した原稿をフロッピーに落として、それを通信専用のパソコンから、版下屋さんに流すという方法、つまりいわゆるパソコン通信といわていたもので、まだ世の中にはメールという言葉はなかったはず。外部のライターにはまだ手書きという人もいたので、その打ち直しには手間がかかった。もちろん印刷会社への入稿は、写植版下と指定紙、そしてポジ写真という極めてアナログなセットである。
 これもたった20年と少しだけ前のこと。
 そんな頃、流行に敏感でお金を使うことが大好きなひとりの編集部員(もちろん私ではありません)は、携帯電話とやらのカタログを取り寄せては、見比べてため息をついていた。