北の想像力への極私的歩み その20

 いろいろとあって、時間がビューンと飛んでく(鉄人)、日々なわけである。
 ここではまだ6月なのだが、広げに広げた大風呂敷がこごってしまって、どうにもたためない、というのではなく、ただの怠惰の文才のなさゆえなのです(ということにしておく)。
 さて、昨日はとつぜんに論理不明の都市論に入りつつあったのだが、ご存じのように都心という概念は曖昧のままに、ここ十年か二十年の間に新都心とか副都心とかが現れ、あるいは愛しき埼玉の一部に都心などにも不動産チラシのキャチとして使われたりと、巨大なクウ(空)的な存在の周辺にまるでなんちゃら軽井沢のようにエセ都心が数多く現れては、その覇を競っているふう、というのは言い過ぎかもしれないが、便利な言葉である都心は、枕詞のように用いられて、逆にその機能を果たせぬほどに陳腐化している。
 しかしそんなことはさておき(していいのか)、すでに書いたように都心というイメージのようなものが、丸の内から新宿に移動して久しい、はずなのだが、ここ数年、その実相が三菱地所の果敢なる動きによって、いままでの高さ制限ゆえに実物大の昭和的空間であった丸の内が、にょきにょきビルの乱立によってリベンジを果たしそうな勢いなのである。
 てな感じで、この中心点を欠く東京という概念のようなものを、はなはだいーかげんに抑えつつ、感覚的にいってしまうと、その特徴と一つといえるのが、たいそう当たり前にもその距離的な利便性にあると考えられる。
 つまり都心、新宿ても丸の内でも、に近づくことでその利便性は累乗的に高まり、それは逆も真なりとなる。そういった感慨を、私は6月23日と24日にたまたま重なったイベントを渡り歩いたことによって、感じたわけなのだった。