北の想像力への極私的歩み その26

 さて東海大学でのイベントが終わり、打ち上げの会が催されるということで、私も参加させていただくことに。
 場所はすでに参加者の交通の便を考えて新宿に取ってあるという。人数も多いのでキャンパスから駅まではタクシーに分乗、さらに小田急線は予約の時間に間に合わないこともあり、途中からロマンスカーに乗車というご配慮をいただく。まさに辺境性のワープである。いや旅行気分である。
 ここで何度も冗談まじりに昨日と本日のイベントの差異の中に、その辺境の例示というか、萌芽というか、なんだかよくわからんというか、とんでもない勘違いのようなものを書いてきたが、精緻な論議として捉える辺境性がどのようなものかは、横に置きつつも、その概念を考える上で、特に近年においては辺境といわゆる中心、あるいは辺境から辺境への移動の安易、容易なることの意味を考えてみる必要があるのだろう。
 辺境はつい最近まで、基本的にはただ留まることによって中心との対比、あるいは対峙してきた。しかし近代の利便性は、空間としての往復を可能にしている。ただそれはそこにいるということに過ぎない。その空間にいることは、その場にいることとイコールではない。
 そして一行は新宿へと到着する。昨日と同じように私は西口のロータリーを通り越し、地下通路を進む。二次会の場所はなんと昨日のイベントの二次会の飲み屋の隣り店だったのである。
 その店への道中、私はいっしょに歩いていた倉数茂さんと、氏の作品である『始まりの母の国』の話をしていた。聞けば倉数さんもくだんの書店での自著についてのイベントに参加したことがあるという。