紹興酒を一杯だけ

 近くのバーミアンでお手軽夕食。買い物も洗い物もないのでツレはご満悦。
 で、このところ節制気味のアルコールだが、紹興酒のロックが百円ということで、久方ぶりに飲んでみることにした。
 この酒を初めて口にした日のことは、珍しくもちゃんと憶えている。
 今から三十数年前の学生時代、仲間の誰か(たぶん岡田某のはずだが)に誘われて、数人で新宿南口へと向かった。
 といっても、現在とはまったく様相が違っていて、今の改札を出て東に向かうと、すぐ線路脇に下る階段というか急な坂道があった。その一画はもちろん飲み屋街で、小さな店が狭い土地に重なるように営業している。まるで戦争直後そのままの区画のようだった。店の一つ一つは映画のセットのように安普請。目指す店はそんな中にあった。
 酒といえばビールかサワーだったペーペーの学生に、紹興酒の匂いと味わいはまさに異国の風味。酩酊した脳みそが浮かべる光景は、いつもの夜とは違っていて、古風な琴の音でも流れていただろうか。あのボトルのデザインもそんな心地を助長させる。
 その店に行ったのはその日の一回だけで、あとはまたいつもの店。学校近くは目黒か五反田で、新宿まで足を伸ばす機会はそうはなかったからだ。あの日もどこかへ出掛けた帰りだったはずだ。気がつくと、その店は周辺の風景とともにきれいさっぱりに消えていた。その店に限らず、あの頃の風景のほとんどはもう記憶の中にした残ってはいない。
 バーミアンを出ると、たった一杯の紹興酒が意外と効いていて、いい気分。少しだけ公園を散歩する。前に来た時ほどではないが、今しも木によじ登って羽化する場所を探そうとしているセミを見つける。すでに羽化してしまった諸先輩たちの抜け殻は、まるで桜の木に果実のようにあり、遠い台風から来る風に揺れていた。