『奇跡』は『ストーカー』だよね、というトンデモ説

 先日、是枝監督の映画『奇跡』を観た。その淡々とした描写、けっこう好きのだが観終わってしばらくしてから、この作品って、もしかすると、『ストーカー』なのではないか、などとトンデモナイことを思ってみたりした。もちろんタルコフスキーの方だけど。
 『奇跡』の物語は、両親の離婚によって離れ離れに、福岡と鹿児島で暮らす二人の小学生の兄弟が、いろいろと連絡を取り合っているうちに、特に兄がまた家族全員で暮らせないかと思うようになる。彼は桜島の噴煙が大嫌いで、もし大噴火でもしてくれれば、またみんなでいっしょになれると考えていた。そんなとき、開通する九州新幹線のすれ違う場所で、願うとそれが叶うという噂を聞き、それぞれの友だちを引き連れて、その場所で再会する。
 彼らは学校とか親とかいった障害を乗り越えて、まさに冒険としてその場に着く。しかし兄の願いはすでに桜島の噴火などではなく、少し前に父親と話した「世界」に向けられている。弟は父親の将来を祈り、友達たちも絵がうまくなりたいとか、女優になりたいとか、愛犬の生き返りを祈る。
 映画はその願いが叶ったかまではくわしくは語らない。ただ子どもたちは元気にもとの生活に帰っていく。愛犬の再生は「ヤマアラシ」の願い。川内(原発)の地名も映る。ねっ、『ストーカー』でしょ、って違うか。