想像力が作る「記憶」?
『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』
昨日に続いて、記憶について書いてみたい。というのも、14日の朝日新聞夕刊に掲載されている三谷幸喜さんのコラム「「ありふれた生活」を読んで、「あれれれ」という気分になったからだ。
コラムのタイトルは『巨匠の映画の見事な怖さ』で、彼曰く、子供の頃にヒッチコックの『鳥』を観たとき、残酷な死体のシーンがあって怖い思いをしたが、最近のテレビ放送やDVDで観たら、そのシーンでは別の登場人物が死体の顔を手で顔を覆っていた。つまりこの映画は、子供の頃の恐怖体験を、さらなる妄想として残してしまうほどにすごいのだ、というのだ。
実は私も子供時代にこの映画をテレビで観て、残酷なシーンに恐怖している。すると私の記憶も三谷さんと同様に妄想なのだろうか。
いや違う。これは三谷さんの子供時代の記憶の方が正しい。
映画には鳥に襲われて亡くなる人がふたり登場する。最初の農夫はやはり眼を突かれていて、これを三谷さんや私が怖い!!!と感じたのだ。そしてもうひとりの女性の犠牲者の顔は、男優が手で覆っている。三谷さんは記憶をこのふたつを取り違えて、後者を前者と思ったのだろう。
この点は、『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社)でも確認した。
確かにテレビ放映は、残酷なシーンだということで、カットされている可能性がある。でもDVDではたぶんありえない。もしそうだとしても、残念ながら三谷さんの主題は成立しないことになる。
三谷さんはこのコラムで、やはりヒッチコックの『サイコ』にも言及しているが、そこで触れた関係書というのはたぶんこの『映画術』のことで、コラムにあるとおり、『サイコ』のシャワーシーンの全カットが載っている。和田誠さんのこのコラムイラストも、断定はできないが、この本を資料にしているのだろうと思う。
その和田さんは映画に関する著作も多い。三谷さんの原稿を読んでから、イラストを描いていて、その記憶の差し違いに気が付かないとしたら、ちょっと不思議だ。
★写真は『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社)。映画監督のトリュフォーがヒッチコックにインタビューする形で、その作品を語り尽くしている。まさにヒッチコックによる全作品解説。トリュフォーのヒッチコックへの傾倒ぶりもかなりのものだ。スチール写真も大量に掲載されていて、各作品の主題や制作過程、裏話などがふんだんに盛り込まれている。