北の想像力への極私的歩み その八

 その頃だったか、もう少し後からだったか、学生時代の友人と三人で御茶ノ水や神保町あたりでよく飲んでいた。
 というのも、この友人たちのYとKもいわゆる版元で仕事をしていたのだが、一番忙しいのが社会派のルポルタージュやノンフィクションを多く出版していた晩聲社に勤めていたKで、彼の仕事が終わるのを私とYが飲みながら待っているという構図になっていたのだ。すると必然的に飲み屋は、Kの勤め先近くになる。しかもKが顔を出すのは遅い。そのとき二人はすでに出来上がっていて、いつもちゃんと電車のあるウチに帰ろうといいあいつつ、知らないウチに時間は過ぎゆき、気がつけば「まいまいつぶろ」の二階のテーブルで時計は午前を刻んでいた。
 そんな日の宿になったのは、今だからいえるが晩聲社の編集部だった。
 あのギシギシという木造の建物、回廊風の不思議な間取り、そして黒っぽいソファの寝心地の記憶はしっかり残っている。
 いつしかKは晩聲社を辞め、のちに別の版元に勤めている。彼がいったん無職になるときにはウチでイベントを開催し、今度はその三人が泊まっていった。晩聲社自体もずいぶんと様変わりしている。
 そしてもう一人、晩聲社を辞して一人立つ人物がいた。彼こそが札幌の地に寿郎社を設立した土肥さんだ。しかしその名前を知るのはのちのことだった。