ナンマイダー・マイナンバー

 とある人の例。ちなみにすべて同一の人物に関係したこと。

 その一
 家によく来てくれる銀行の人から、とある金融商品を薦められた。外貨建てで証券会社系の会社が運用するものらしい。まあお付き合い程度にちょこっと買おうとしたのだけど、マイナンバーを知らせなくてはならないというのでやめにした。迷っている、というかどっちでもいいかなぁ、と思っている人にとって、このマイナンバーを通知しなくては買えないっていうのは、非購買動機に大きく働くよね。

 その二
 年金給付が始まるのでその届を出しに行ったけど、マイナンバーの話はまったくなし。

 その三
 確定拠出年金の受取りの書類をまとめていたけど、その中にもマイナンバーがらみの書類などはなし。

 この三例だけからすると、すでに権利があることがらについては、マイナンバーはどうでもいい、というか、すくなくとも強く求めないってことかな。まあ、これから先はいろいろと力関係の要素が入ってくるのかもしれないけど。
 で、一番問題となるのは、実はその一について。この例を敷衍してみると、マイナンバーってやつはおおよそ経済の発展を阻害する要因となっているんじゃないかってことだ。少なくとも、ちょっと遊休資産のある年寄り連中の一定の層は、なにやら物騒なマイナンバーをさらしてまで、どーでもいい金融商品を買おうとはしないだろう。そんなあたりからも、この最初っから問題山盛りのこのシステムのほころびが出てくるのではないかね。

カワセミ日和

 前にも何度か書いたけど、近くの公園に秋から春にかけてカワセミがやってくる。散歩の途中で、私が勝手に命名したカワセミ橋にさしかかると、しばし立ち止まって池の杭の上や葦が生い茂ったあたりを見回して、カワセミを探す。
 意外に出会える機会は多く、チチチチーという高い鳴き声でどこかへ行ってしまうまで、そこで眺めることになる。数日前に会ったカワセミは杭の上に止まり、そこから何度も水面に降りては戻ってくる動作を繰り返していた。それ見たツレは子どものカワセミに違いないという。確かに小魚を捕っているようではなく、それを練習しているようである。以前はよく親ガモに率いられた子ガモの行列を見かけたが、このワセミが子どもかどうか確認するのは難しい。
 今の季節は、カモやカモメで水面が覆われている。他にもいろいろな鳥がずっといたり、あるいは季節ごとにやってくるのだが、だれもカワセミほどに愛でることはない。
 休日ともなれば、くだんのカワセミ橋に望遠レンズの砲列が並ぶ。カワセミの魅力はその輝く背の青と腹の朱色にあると思うけれど、それを効果的に際立たせているのが、あまり見ることができないということなのだろう。
 といいつつ今日もコンパクトデジカメをポケットに入れて、散歩に出掛ける。そして待つこと五分ほど、突然木々の間から出てきて、チチチと鳴きながら水面すれすれを一直線に飛び、杭の上に止まったカワセミと出会う。これも子どもなのだろうか。個体としては小さく見えたのだが。その成果は以下の写真。こんなに頻繁に見てしまうと希少価値がなくなってしまうなぁ。

中島飛行機の火器厳禁

先日、中島知久平に関するテレビ番組『英雄たちの選択』を観た。
 なにやらいやらしいタイトルで、もってまわった展開を含め、あまり好きな番組ではないのだけれど、テーマによっては観ることにしている。
 中島知久平とは、若い時分から飛行機の兵器としての可能性を信じ、その思いが上部に伝わらないことに業を煮やして海軍を辞め、自ら航空機製造を始めた、いわば軍需産業のパイオニア的存在。彼が作ったのが中島飛行機で、第二次大戦で使われた数多くの戦闘機を生産している。戦後はスバルのブランドで自動車生産を主とする富士重工となる。
 個人的関心は中島飛行機が敗戦の色合いの増す大戦末期、起死回生を図るべくモンスター重爆撃機である富嶽がテーマだということ。ヒコーキおたくではないので、そのあたりのことはよく知らないのだけれど、ドイツや日本では、大戦末期にこのような実用化が難しいトンデモ兵器の開発が数多くなされてきた。富嶽は太平洋をひとまたぎしてアメリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を飛び越えて、ドイツ占領下のヨーロッパに着陸するというもの。しかしその壮大な構想ながらも、離陸するとタイヤの半分を投下して重量を減らすといった小技を駆使するなど、なかなかニクめない。
 そういえばドイツにも、ロケット爆撃機として成層圏を飛ぶのがあったはず。
 とまあ、話が長くなりそうなので、このあたりで止めといて、番組内容に戻ると、驚いたのは中島飛行機を説明するアニメーション。日々戦闘機の開発にいそしむ工場の壁には、なんと「火器厳禁」とデカデカと書いてあるではないか。もちろんこれは火気厳禁の誤りのはず。戦闘機を作っているのに、火器が厳禁とはなんともはやだけど、民間ではない天下の放送局がこれではちと悲しすぎる。万一、何らかの意図があって、説明がなければ制作者が恥をかく表現でしかない。
 そういえば漱石虞美人草を語る番組でもPM7:00などと時間を表していたけど、AM、PMは数字の後に来るはず。これもちと恥ずかしい。そんなこんなで某放送局、基礎学力が低下しているのではないか。
 でくだんの『英雄たちの選択』、若手の有名学者先生たちがいろいろと述べていたけれど、にわか勉強の自説開陳で論が薄べったいのだ。それに対して口下手だけど、YS11の開発者だった老人の弁は見事で、それがどこまで正しいかは別にして、自らの心情をそのまま吐露している矜持を前に、ほんとは何も知らない若手学者たちは沈黙のまま、まとめもほぼなく番組が終えたのが、唯一司会者の良心のようにも思えたのだった。

 

『予告』

 前回の書き込みからまたもや三か月。「続く」とその最後に書いたのだけど、その時考えていたはずのその「続き」のアイデアは、すでに脳髄から蒸発してしまいました。ごめんなさい。
 おまけに昨年夏以来の体調不良で、世間の方々にもいろいろとご迷惑をお掛けのしっぱなしなのではあります。
 「あれ、あいつならいつものほほーんと来ているはずなのに、いないじゃないか」なんて思われている方ももしかするといらっしゃるかもしれませんが、そのあたりもそんなわけなのです。

 でもまあ、このようにとりとめもないことを書いているぐらいには、普通にただ生きているぐらいはできていますので御安心ください。
 そんな日々、パソコンの隅っこにほじくっていると、昔書いたいろんな拙文がちらほらと見つかるのでした。そして、「うん、新しいのを書くのは面倒だけど、こんなのをアップするぐらいならできるかも」と思いたった次第なのです。
 はたしてどうなるかはわかりませんが、新しい粘土、じゃなくて年度も始まるようですので、これから先はそんなことをちらほらと「サクラの花びらのように散らしてみようかな」と思っているので、気が向いたら、お付き合いくださいな。