「新宿のありふれた夜」の感想 SIDE:A

 21日に新宿のスペース雑遊で、舞台『新宿のありふれた夜』を観る。これは佐々木譲さんの同名小説の四度目の舞台化で、副題は、若松孝二監督が映画化したタイトル「我に撃つ用意あり」。
 観客席は100ほどか。空間の六割が舞台で隙間はほとんどなく、観客の目前で芝居が展開することになる。
 原作は1983年の新宿のひと夜の出来事を描く。ベトナム難民の少女リンは、暴行しようとした暴力団の組長を殺して、偶然歌舞伎町のバー・カシュカシュに身を隠す。主人公である店長の郷田克彦や常連客は、60年代末の政治的状況を担ったかつての若者たちだった。その意志がリンを前に問われることとなる。
 いっぽう組長を殺された組員たちはリンを血眼になって探す。組長殺害を暴力団の抗争と考えたた警察も容疑者の捜索に乗り出す。その二つの輪がじりじりとリンに迫ってくる。原作は暴力団と警察の包囲網を俯瞰的に捉え、かつ主人公たちの拠点、いわば砦となったカシュカシュの群像を描いている。

 しかし驚いたことに今回の舞台に、主人公の克彦は登場しないのだ。私はこの舞台が『新宿のありふれた夜』を原作としているのさえ疑うことになるが、やがてリンはカシュカシュの常連客たちが匿い、郷田は店の外で彼女が海外に逃げ出すための方策に奔走しているという設定であることがわかる。
 ただし郷田は劇中劇に少年の姿として現れる。一瞬ジョバンニと呼ばれる彼は、すぐに克彦となる。「ありふれた夜」に「銀河鉄道の夜」が組み込まれたわけである。
 舞台に主人公が登場しないことで、逆に常連客の属性が浮き上がってくる。それぞれの胸の内に残る残り火に温まるように、彼らはテーブルを囲んで、ワルシャワ労働歌を口ずさむ。「砦の上に我らが世界」と。しかしリンを逃す方法を考え出したのは、元ヤンキーの氷屋の青年だった。その顛末はここでは書かないことにする。
 そして不在だった克彦はリンとともに消えて、カシュカシュはほんとうに不在の空間となる。カシュカシュとはかくれんぼの意味を持つ。キャストと観客は克彦が意味したことの不在を知る。

 『新宿のありふれた夜』の四回目の舞台化だそうだ。たぶん一回目の公演を私は観ていて、そこでは原作通り克彦が主人公だった。台本を書いた高橋征男さんは、なぜ克彦の姿を消し去ったのだろうか。帰りがけ、いっしょに観劇した連れあいに私が「ゴドーを待ちながら」かな、と話すと、彼女はすかさず「霧島、部活やめるってよ」みたいね、といった。これは彼女の方が正解なのかもしれない。前に書いたように、克彦の不在は他のキャストを浮かび上がらせる。スポットライトはその隅に100名余の観客たちをも照らしているはずである。

 12月27日まで、スペース雑遊にて上演中。