ひとり言

五反田今昔ストーリー その十三

しかし、とあるエピソードを虚実入り混じりで簡単に書こうとして、なんでこんなに長くなるのだろう。と、文才の無さをしっかし確認しつつ、救急車は夜の品川をひた走る。 その車には先輩の一人が同乗し、他のメンツはタクシーで搬送先の病院に向かうこととな…

五反田今昔ストーリー その十二

まもなく、周囲の諸先輩はコップ酒消費機械と化した同輩の異変に気付くのである。やがてその御仁は石像のように動かなくなり、視線も固まっていく。ただ口を開けて、注がれる日本酒を流し込むルーティン動作を繰り返すだけなのだ。 いつしかその顔自体も石像…

五反田今昔ストーリー その十一

新開地の楽しきひと時はあっという間に、煉獄の谷間と化していた。 日頃、飲み歩いてはいたが、その財布の健康状態から、飲み慣れることはなかった先輩諸氏だから、沸きいずる泉のように、無尽蔵に日本酒を注がれても、消費する限界はすぐに到来したのである…

五反田今昔ストーリー その十

あーあ、またぼーっと五反田界隈をふらついてしまったわいと、いっておいて、話の続き。 あの頃の貧乏学生にとって、世のおっさんたちのフトコロといえば、まさにフルジョワーそのものだったのである。もちろんたぶん五反田一リーズナブルな新開地の安飲み屋…

五反田今昔ストーリー その九

ではその五反田新開地での出来事、といっても直接見たわけではなく、のちのちの語り草になっているだけで、大したことではないので、なーんだ、といわんといてください。 さて、それでは始まり、始まり。 それは年末の慌ただしさを感じる寒い夜のこと、なぜ…

五反田今昔ストーリー その八

考えてみると(ホントに考えているのかなぁ)、学生時代に通って五反田の飲み屋というのは、数が知れている。 まずはすでに書いた坂の途中の今は無き、大力。そして五反田というよりは、ほんどと大崎広小路の大橋家(だったと思うがうろ覚え)、ここは他よりも少…

五反田今昔ストーリー その七

というわけで、飲食はとにかく基本的には自腹がいいよね。まあ、たまに友人に奢られたり、ツレにごちそうするのはもちろんありだけど、と突然文体を変えてみたりしている。 というのも、ね、会社の金や取引先の(必要以上の)接待は、食べる、飲むことの楽し…

五反田今昔ストーリー その六

あーあ、やっちまったわい、と営業氏と視線を合わせつつ、そのま白きテーブルクロスに目を傷めそうになりながら、そこに座ってしまったのでしたが、かの同僚はことここに及んでも、事態のほど理解できずにいるようで、テーブルの隅に両手を伸ばして、ウェイ…

五反田今昔ストーリー その五

同僚のその階段を昇る姿は堂々としていて、自信たっぷりな様子。まさに人生の目的そのものにまい進しているように営業担当と私には見えたのでした。 よってここが我々にはまったくふさわしくない高級フランス料理店なのではなく、街場によくある洋食屋なので…

五反田今昔ストーリー その四

その要因とは、すばり同僚である。彼はとにかく会社の金でただ飯を食うことを人生の生きがいにでもしているような御仁であって、あと少しで仕事が終わるのにも関わらず、休憩と称して「食事」の時間となるのであった。つまり休憩であれば仕事の内ということ…

五反田今昔ストーリー その三

というのも、某版元で働き出すと、作っている雑誌の校了作業を五反田にある印刷会社で行うこととなったのだ。 しかも店の位置はちょうどいいあんばい。校了日は間違いなくその店の前を通ることになる。 暮れ時、家路を急ぐサラリーマンの流れを遡り、印刷所…

五反田今昔ストーリー その二

いつだったか、よく覚えていないのだが、大学の先輩が五反田に飲み屋を構えた。その名は「かな将」。 彼は学校を卒業(したかなぁ)後に、やはり以前からアルバイトをしていた目黒の飲み屋で修業して、何年か後に、その隣の駅、五反田で店を開いたのである。…

五反田今昔ストーリー その一

昨日は母の命日。彼女がいなくなって、三度目の秋である。 ツレといっしょに、五反田の寺にお参りする。とうぜんそこはウチの菩提寺なのだが、個人的にもどうしたわけか五反田縁深い。 父や母の若い頃の職場が近くだったせいで、その界隈でよく食事をしたり…

セメダインのにおい

必要があってプラモデル用のセメダインを近くのビバホームで探した。何十年ぶりだろうか。昔はもちろんプラモデル店で買っていた。プラモデルに付いている小さなドロドロの接着剤ではなく、刷毛付きのこれを購入したときは、意味もなく先に進んだように思っ…

三、五、八、十、十二、それとも十五

三パーセントになったとき、いやだよなぁ、買い物するたんびに税金とられちゃうのかと、ぼやいたものだった。でもまさか五パーセントになるなんて、というのももう昔話、そういえばどこかの評論家が、これからもどんどん増えていきますよ、っていったけど、…

すきまの一日

だいぶあとになって、この日の書き込みがないことに気づく。 ということで、だいぶあとになって、ここに文章を並べている。 そう、こうやって、歴史は少しだけウソをつくのだ。 そうして、ウソともいえないウソがゆっくり積もっていく。

うまい汁、はい、吸ってます。

そんな今は昔、のことをつらつらと考えてみると、「半沢直樹」のバンカー人生もかなりの紆余曲折があったってことは明瞭なのだ。 ほとんどの庶民は、いま銀行に利子を期待してなんていないよね。もちろん住宅ローンでお世話になっている人や、その他の公共料…

憶えています、あの日の利子

私が就職して、僅かながらの貯蓄ができた頃、というともう四半世紀も前だろうか。 調べればすぐにわかるけど、その時代は新聞などでも貯蓄がずいぶんと推奨されていて、毎週の家庭経済欄的な紙面には、リアルタイムで各金融商品の利率が掲載されていた。 あ…

さくら銀行のカード、持ってます。

しかしここまで引っ張ってどうする「半沢直樹」ネタ、というか、もうネタでもなんてもない感じがする。 で、半沢直樹が勤めている東京中央銀行という銀行は、産業中央銀行と東京第一銀行が2002年に合併したという設定とのこと。 産業中央なんていうと、…

金の流れはたえずして

でまたよせばいいのに、記憶でその後の13ANKSを辿ってみると、拓銀は露と消えていく。破たんというのか倒産というのか、その消え方はわからないけど。 以下、私の記憶なので、信用しないように。とくに元の名前の順番などは間違っている可能性大です。…

1+3がBだったころ

はい、カンニングしてしまいました、 昨日、書いたように東海銀行と東京銀行も都市銀行だったんですね。どう考えても十三にならなかったわけだ。 この十三というのがしっかり記憶に残っているのは、たぶんその当時、自分が初めて給料振込み用に口座を作った…

ゼンマイに似たぎくしゃく

桜台では最後尾の車両に乗った。駅に停まるたびにはっきりとした女性の声が聴こえる。そう、女の車掌さんが研修を受けているのだ。彼女はいちいちホームに降りて、ややゼンマイ仕掛けの人形のような動きをしつつ、先輩男性車掌の指示を受けている。 池袋に着…

家の記憶 九

夏休みともなると、伯母の家で何日も過ごすことになるのだが、小学生はやはりおばけがこわいのである。いつだがいつも観ている子ども向けのドラマがなぜかその日は怪談もので、みんながテレビを眺めている三十分間、私はずっと視線を逆にして、みんなの顔だ…

家の記憶 八

そういえば、従兄と新幹線の線路を見に出掛けたこともあった。つまり1964年のすぐあとということになるのだろうか。うーむ、ほとんど半世紀前である。 彼が通った高校へも出掛けた。とてもキレイな学校で、そこに通ったことを子どもながらにうらやましく…

家の記憶 七

さて、それではまた伯母の家に戻る。 茶の間の黒い電話の向こうに、いつも伯母が水仕事をしていた台所があった。そこから長い廊下が伸びていて、物置代わりの部屋と従兄の部屋につながっていた。たしか従兄は私よりも七歳ぐらい年上で、つまりは小学生であっ…

家の記憶 六

そんな同窓会の懐かしきともがきの笑顔に似て、懐かしき風景も同じようなさまを見せる。 かつて住んでいた場所に何らかの機会を持って出かけても、その再訪の記憶はすぐにあやうくなっていき、やがてかつての濃い記憶の中に消えていく、そんな体験をしたこと…

家の記憶 五

たとえば同窓会での会話の決まり文句に、「まったく昔と変わっていないわね……みんな」などというのがある。リップサービステンコ盛りのその言葉にも、ほんの少しだけオマケのトッピングぐらいに、真実が含まれているように思う。 しかしそれは、卒業後数年の…

家の記憶 四

ここ数日、家の記憶について書いているが、どうしてなのかというと、もちろんか伯母さんが先日亡くなったことが理由なのは間違いないのだが、それと同時にここ何日かまたタルコフスキーの「鏡」を観直して、深く考えていることにもあるようなのである。 タル…

家の記憶 三

いつものように話が脇道に逸れる。昨日書いたように、伯母の家には私が物心がついた頃から電話があったのだが、自分が住んでいる家に電話が入るのは、かなり後になる。1960年代末(意味もなくあいまいにしている)まで葛飾柴又にアパート住まいだった頃…

家の記憶 二

伯母の家の広間は庭に面していたのに対して、茶の間は反対側の坂道に開く窓があった。ここには坂道を行く人々の影が映り、ここから話し声が聴こえたはずだ。 この部屋には昨日書いたように掘り炬燵があったはずだが、その記憶がいたってあいまいなのは、あま…